* 奈良文化財研究所から出された論文によると、この天然痘による大惨事に対し、天皇は税の軽減・薬の配布などの詔を発し、全国の社寺仏閣に加持祈祷を命じたとのことです。また、道饗祭(みちあえのまつり)の実行を勧め、人々の往来に制限を加えようと対策したとのことですが、今で言う水際対策の原形だったのかもしれません。その他、豪族の領地内には大皿食器の廃棄・小皿の普及など感染対策と思しき行動が広まったとされています。恐らくは大陸からの仏教の伝来とともに感染症流行への対策が広まりはじめたものか* * と思われます。◎江戸時代、コレラ大流行時代は変わって、江戸時代後期の安政年間、江戸市中でコレラの大流行があり、「はやり唄」の文句にも「戒名つけるに文字が無い」などの大惨事が起きた時期があったそうです。そんな頃に、時の佐倉順天堂の蘭医学者であった関寛斎らの活躍により江戸の台所と呼ばれていた銚子ではコレラの流行が起こらなかったことを柳原三佳の著書「コレラを防いだ男」(出版社:講談社)で読むことができます。当時、巷では「うなぎは食べてはいけない」「イワシを食べたらすぐに死ぬ」などの噂から野菜や卵の価格高騰、商売の行き詰まり、失職、生活苦などパンデミックの負の循環が起こりました。庶民は神輿を担いだり、ヤツデをぶら下げ天狗の面で練り歩き、この受難を乗り越えようと…。蘭医の関寛斎は感染対策として「生水・生ものは口にしない」「水は必ず沸かす」「魚は加熱し食べる」「手をこまめに洗う」「食器、箸、布巾、手ぬぐい、口に入れるもの、頻繁に肌に触れるものは必ず熱い湯に付けてから使う」「吐物、下痢便には決して触れない」「体力をつける」などを根気よく民衆に説いて回り、さらに感染が疑われる際19
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